「ああ、雨か」
がそう言ってから、初めて外の天気がそうであることに気付いたのだ。



そぼ降る雨



「すみません」
床の中から弱々しくかけられた声に、黒髪を翻して振り返る。その拍子に桶に入った水がたぷり、と揺れた。障子が閉め切られた室内は薄暗く、火鉢の中の炭が爆ぜる音が時々している。
「どうってことないよ。それにこういう時は『ありがとう』でしょう?」
「そうでしたね」
笑みを含む声がした。いつもの彼女の声ではなく、少し掠れて辛そうだ。白い面は熱の所為で赤く上気し、汗ばんだ肌には黒髪が張り付いている。 普段はきっちりと編まれている其れも、今は褥の上で方々に散らばっている。額に落ちかかる一筋を指で払って、 桶の中の水で冷やした手拭いをあてがう。彼女が気持ち良さそうにゆっくり瞳を閉じるのを、桔梗色をした双眸があたたかく見下ろす。
「救護専門の四番隊隊長ともあろう者が、風邪で寝込むなんて。他隊の方々に示しがつきませんね」
「風邪ぐらい誰でもひくよ」
苦笑、むしろ自嘲の笑みを浮かべれば、淡々とした口調で返る言葉。一つ、 聞いただけでは冷たく突き放されているのかと錯覚してしまう。
「それに烈さんは最近ちょっと働きすぎだよ。貴女が倒れた時、勇音ちゃんがどれだけ慌てて俺の所に来たか」
「まったくあの子は……傍に四番隊の者がいたでしょうに」
副官のその時の様子をあまりにもはっきりと思い浮かべることができてしまい、卯ノ花は少し咎めるような口調になる。 しかし言葉遣いだけで、声には深い慈愛が満ちていた。もそれに気付き、瞳をやわらかく細める。
「びっくりしたよ。勇音ちゃんは泣きすぎてぼとぼとで何言ってんのかわかんないし。四番隊に来てみれば伊江村さんがヒスってるし」
「申し訳ありません」
部下の様子をの口から聞かされて、卯ノ花は恥ずかしさに顔を赤くする。それに軽く微笑んで、は卯ノ花の枕元に座る。
「烈さんはやっぱり隊長なんだな」
布団の上の白い手を、自分の手で包み込む。刀を握ることは滅多にないが、日々傷を癒し、消毒薬にまみれた手は連戦の剣士の手と 同じくらいに荒れている。
「貴女がいることで四番隊は成り立っている。勇音ちゃんも伊江村さんも、花太郎も。みんな烈さんを中心にこの隊はあるんだな」
さん……」
「ああ、雨か」
がそう言って初めて外の天気がそうであることに気付いた。音も無く降る雨は誰にも知られることなく、 ただ地面に吸い込まれていく。閉め切られた障子の向こうにその気配を感じ取って、つと視線をそちらへ向けただったが、 彼の手の中には依然として卯ノ花の手がある。手から直に伝わるぬくもり。言葉から心にしみる労り。 どちらもが今の卯ノ花を癒す特効薬となる。
「隊長はやっぱりすごいと思うよ。ウチの浮竹隊長もそうだけど、一人で全てを支えている。重たいんだろうな、 しんどいんだろうなって思うよ」
「ですがそれが隊を預かる者の務めです」
きっぱりと言い切る卯ノ花の目には揺るぎない覚悟と強さが垣間見えた。はふっと暗闇に仄かに灯る光の様に笑みをこぼす。
「かなわないなぁ。本当に。隊長は強いんだから」
「責任ある仕事です。けれど私にはさん、あなたのように助けてくれる人がいます。浮竹隊長にあなたがいるように 、私にも勇音がいます。ですから頑張れるのですよ」
続けられた言葉にはきょとんとした。それはまるで思わぬところから賛辞を受けた少年のように幼くあどけない。 卯ノ花はこの日初めて彼より年長者らしく振舞えたことが誇らしく、また彼にこのような表情をさせることが出来たことが嬉しくて、 触れられたままの手に力を込め、ゆっくりと握り締める。まだ呆としたままのに微笑みかけた。
「ありがとう」
その言葉が音となっての鼓膜を震わせる。桔梗色の瞳に戸惑いが生まれ、 しかし卯ノ花の顔を見て次いでそれは照れくさそうな笑顔になる。
「かなわないよ、もう」
空いている手で髪をくしゃりとかいて表情を隠そうとするを、微笑ましげに眺める卯ノ花。外は雨。とても静かに降る其れは、今だけは二人の時間を守るものとして、しっとりと辺りを濡らしていた。